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草加での出来事 石鳥弘

平和を願う戦争体験記 「夕焼けはきらいだ」草加文庫より

草加での出来事     石鳥弘 中央一丁目 昭和七年二月八日生

 

 昭和十七年頃の日本軍は破竹の勢いで各地を占領し成果が新聞紙上を賑わしていた。当時私は草加町立草加国民学校(小学校)五年生だった。

 東京都足立区保木間町に高射砲陣地があった。町の人たちは水神の高射砲陣地と呼び親しみを感じていた。

 この部隊は日本一と噂されていた高性能の高射砲(八八式と呼ばれ射程距離一万二千米といわれた八門の砲がスイッチ一つで一斉に火を吹いた)を備え、首都防衛の任にあたっていた。東部第一九〇二部隊第二大隊に属し、昭和十八年十一月二十四日の最初のB29大編隊による本土空襲以来、二十年三月四・十日の東京大空襲まで活躍した高射砲陣地だった。

 当時、兵隊さんが八大車を引いて草加六丁目の商店から食料を調達して兵舎に帰っていく姿は、いつも見慣れた光景であった。旧道と呼ばれている市役所通りの武蔵野銀行草加支店が建っているところに我が家が建っていた。その日は、暑い日の続く夏の昼下がりであったように思う。いつものように八大車の前に二人、後ろに一人の兵隊さんがついて水神に向かっていた。我が家の前を通過するころ、突然後方より大声をあげながら裸で入れ墨をした大男が、日本刀を振りかざして兵隊さんに襲いかかろうとしていた。丸腰の兵隊さんが危ないと子供心に心配しハッとした瞬間、後ろにいた兵隊さんは素早く前に移りなにやら相談した様子、すかさず号令一下、男が右にくれば車を右に、左にくれば左にと旧道をふさぐように車を左右に振って大男を寄せつけない作戦に出た。

 大男が興奮して切りかかっていったのは僅かの時間であった。しかし、大男は車を振られ右に左にと追いかけてくるうちに、足をすくわれ両足を空に向けて転倒し、アスファルト道路に頭を強く打ち脳震とうをおこしアブクを出して気絶してしまった。

 それをみつけた我が家の前の高梨さんの気丈なおばあちゃんは、その大男を自分の家の軒先にひきずって声をかけたりして世話をしてやった。しばらくして気がつき、その大男は照れ臭そうに背を丸めるようにして退散していった。この時すでに八大車も姿をけし、やがて、あたりは何でもなかったように元の静けさを取り戻していた。

 今ではこのおばあちゃんも大男も故人になってしまった。

 この大男は何のため兵隊さんに切りかかったのかは分からないが、長男が戦死したのを恨んで何の関係もない兵隊さんに酒を飲んで襲いかかったのだろうと、この光景を見ていた大人たちがヒソヒソ話をしていた。それが本当だとしたら、この街角でのちょっとした出来事も、この男にとっては戦争がもたらした大きな悲劇ということになるかも知れない。

 

 「東部軍管区情報午前十一時〇分敵機一機南方洋上より房総半島に侵入しつつあり警戒警報発令」四球スーパーラジオといわれた真空管式ラジオから流れるアナウンス。

 数分後不気味な空襲警報発令のサイレンの音、空を見上げているとB29一機が飛行機雲(八千米~一万米に達すると発生する雲)を引きながら悠々と飛来、これを追跡する日本の戦闘機一機、その大きさにカラスと雀ぐらいの違いがあるにしても、期待を裏切りいつになっても追いつけない。やがて東京上空を通過、北東の太平洋上に姿を消す頃、東部軍管区情報が流れ空襲警報が解除。

 十三歳の子供であった私には「なんだ、なんにもしないよ」と機影を追うだけであった。

 ところが、夜になるとB29爆撃機数十機が編隊を組んで首都東京に波状攻撃をかけ焼夷弾の雨を降らせ、一夜に数十万ともいわれている人命が奪われる。昼間の一機は、夜の空襲のための偵察飛行であったのだ。

 そのころ町では、各戸に防空壕という退避壕を作ることが指示され、防空壕を掘ることになった。私の住んでいた場所は、幸手の権現堂の堤防が決壊し、草加町が水没した大水害でも旧道だけが島のようになって水がこなかった程、草加で一番高い所だと聞かされていた。安心して裏庭に穴を掘り始めたころ、意外や意外四、五十センチぐらいからジクジク水が出てくるではないか。浅く掘った穴の周りに杭をたて名ばかしの防空壕を作った。

 昭和二十年五月二十五日夜の大空襲、灯火管制のしかれた真っ暗闇のはずの東京の空がオレンジ色に染まっている。数条の探照灯が機影を照射して捕え、B29目がけて高射砲の猛射、その直後千住方面(四本煙突、通称オバケ煙突)から北の方向にオレンジ色に機体を染めた一機が高度を次第に下げながら飛行、やがて機影は新田あたりで視界からなくなった。あっ、B29がおっこった。新田の方だ、いや、あれは安行だと口々に推量していた大人たち。(B29の墜落場所は草加市新栄町一〇五六中山俊一氏の話によると川口市安行大字吉蔵三六八八木下一夫さんの裏の田圃と脇の畑であったことが分かった)

 翌日母を自転車に乗せ墜落場所へ向かった。数十人の人が見物にきていた。焼け焦げた缶詰が畑に散乱、ふと見ると、焼けてビール瓶のような色になってしまった大男の焼死体、仰向けかうつぶせか分からない。

 私の脇から一人の男が死体を覗き込むように近づいていった、何やら手に持っている様子。死体の頭の(顔)の辺りで、あっヤットコで歯を(金歯だったのか)抜いている。思わず母と顔を見合わせてしまった。ジェラルミンの破片を一つ拾って帰る途中、ふと辺りを見ると農家の人たちが天びん棒を担いで一生懸命行ったり来たりしている。その桶の中を覗くと空色のきれいな液体であった。すぐそばの田圃に落ちた胴体が田圃にめり込み、田圃一面に流れ出て池のようになった航空燃料を他の所に運ぶ光景であった。

 やがて八月十五日終戦を迎え、日本に米軍の進駐が始まったころ、日本軍に撃墜されたB29の搭乗員を手厚く葬り、米軍から感謝状を頂いた記事を読んだことがあった。米兵の歯を抜いた男、鬼畜米英撃ちてしやまん、欲しがりません勝つまではの時代、敵を手く葬った村民。